2018/06/21
9歳まで坂出にいたが、大学からずっと徳島だった。卒後は、四国の関連病院の最も多い第一内科(現:生体情報内科)に入局した。第一内科に入局した理由は、三つあった内科教室の中で、一番幅広く内科疾患を研鑽できることであった。
入局当時の専門研究分野は、第一研究室が神経・筋、循環器グループ、第二研究室が内分泌・代謝、第三研究室が血液凝固、第四研究室が血液免疫グループであった。関連病院も多く、消化器、呼吸器は関連病院で研鑽できた。私は、第一研究室に入って神経・筋グループに属し、主に筋疾患、パーキンソン病の基礎的研究にたずさわった。
香川県内の医局関連病院は、さぬき市民、県立津田、高松日赤、高松市民、県立丸亀病院などいろいろあったが、私の医局人事は徳島県内ばかりの勤務だった。父はまだまだ元気で地域医療の第一線で活躍中だが、70歳を越えたこと、息子が中学生になることなどの事情で、3年前から実家に戻って開業したいことを医局に申し入れていた。
しかしながら、新研修医制度による地方大学の医局の医師不足のあおりをうけて、後任人事がなかなか決まらなかった。私の同期(平成元年卒)の入局者は、他大学出身者も含めて十数人いたのに、最近の入局者は数人程度までにとどまり、そのほとんどが女性医師である。近年の関連病院の人事は滞りがちで、医局派遣のみの人事では関連病院を維持できなくなってきたのだ。なんとか後任医師を決めてもらって医局の人事からはずれ、実家に戻った次第である。
しばらく元町の実家(旧:国重医院)にて微力ながら父と診療してきたが、元町の医院は築40年で老朽化が目立ち、町中にあるため非常に手狭だ。改築も難しく、駐車場の確保困難などにより、住宅街の笠指町に医院を新築し、2009年2月5日竣工、3月2日移転開業に至った。2月末の3日間を臨時休診として一気に引っ越したが、この狭い医院にこれだけのものがあったのかと驚いた。BML電子カルテ、コニカミノルタの画像ファイリング(IPACS-EX)など新しいシステムを導入した。
40数年の私の人生のうち、留学でアメリカ(ロサンゼルス)に2年ちょっといたが、後の約半分の期間がずっと徳島だったので、今の私は、徳島県人(阿波男)と思う。しゃべり方も阿波弁(関西弁に近い)にそまった。坂出から徳島にきて最初に驚いたのは、「~だ」「~です」の意味で、「~じょ」と言うことだ。私としては、20年以上徳島にいて語尾に自然と「じょ」をつけるまでには至らなかった。これをつけるのは女性がほとんどで、なんとなくかわいらしいが、一部男性(生粋の阿波男)でも使う人がいて少々気持ち悪い。これからは、坂出で暮らしていくので、そのうち香川県人(讃岐男)になっていくのであろう。
久しぶりに坂出に戻って感じたことを思いつくままに挙げてみると……
お椀を伏せたような山がポコポコと散在している。徳島は四国山地と讃岐山脈にかこまれ、吉野川流域に人が暮らす平野の狭い山間の街であったが、ここは讃岐平野に飯野山、笠山、角山、聖通寺山、金山などなど、平野に山が散在している風景がなんとも目新しく感じる。笠山のふもと、笠指町に医院を移転したが、このあたりも住宅がたくさん増えたものだ。小学生の頃はこのあたりは田圃ばかりで、笠山にカブトムシやクワガタムシを捕りに行ったことが懐かしい。
商店街がさびれている。商店の多くは閉まっていて、路面もシャッターの絵も昔のままだ。商店街を歩いているのは、手押し車をついているお年寄りばかりだ。一番にぎやかだった商店街のトミーと坂出警察の跡地が宅地分譲になるとは夢にも思わなかった。徳島に来た頃は、徳島のアーケード街が短くて坂出とたいして変わらない規模だったので、坂出のアーケード街が都会のように思えた。子供の頃は、土曜デーが楽しみで、露店もたくさん並んでにぎわっていたが、今やその面影もない。元町の飲み屋さんも減り、夜も静になった。毎晩あちこちでカラオケが始まり、うるさく響くので受験勉強中の我が身にとっては劣悪な環境だったことがウソのようだ。
坂出の人口は昭和51年の6万7千人をピークに徐々に減り、今や5万数千人程度に減っている。番の州工業地帯の労働者が坂出の街にあふれていたのが、次第にいなくなった影響が大きい。京町の人工土地も建設当時は斬新な構想だったのかもしれないが、今暮らしているのは老人ばかりで、フーフーいいながら階段を上がり降りしている。通院もままならないので、何軒か往診に行っている。坂出は老人の街。宇多津は若者の街。やはり、短大や大学、専門学校などがなければ、若者をあまり見かけない。なんとなく元気のない街に見える。
香川県の活性化のために、元気な企業に進出してきてほしいところだ。高松駅付近、サンポートも空き地が多い。中央通りのオフィスビルも開き屋が多いようだ。これが四国の玄関か。マンション(サーパス、RGなど)がやたらと目につく。これは徳島でも同じことだ。昔ながらの長屋やアパートが減り、マンションに置き換わっていく。人口が減っているのだから、マンション業界も厳しいだろうに。ダイアパレスのダイア建設は倒産してしまったが、穴吹グループは大丈夫だろうか、マンションのみならず手広く事業を展開しているようではあるのだが。徳島は大塚製薬をはじめ、日亜化学が発光ダイオードで元気ハツラツのようだ。医薬品業界は、合併などで社名が一時めまぐるしく変わって大変そうだったが、IT産業は引き続きのびるだろう。何か技術力がなければ生き残っていけない。
女の人のあいそが悪い。笑顔が少なく、何かよそよそしい人が多い。特にスーパーのレジの人。店員さんやレストランのウエイトレスさん、看護師さんも。これは、徳島県人が田舎者でなれなれしすぎるからそう感じるのだろうか。香川県人に言わせれば、こっちのほうが都会なんよ、だって。
中国人やフィリピン人、東南アジア系の人が多い。スーパーで買い物をしている人の会話が中国語であったり、フィリピナ語(英語ではない)が耳につく。坂出や丸亀の港湾地帯の中小企業でフィリピン人を多く雇っているところが多いようだ。当院にも中国人労働者が健康診断で訪れることが多くなった。
断水がなくなったが、水道代が高い。吉野川上流より香川用水として水脈ができ、香川が断水に悩まされることがなくなった。しかし、徳島からこっちに移り住んで、水道代が高いのには閉口した(徳島の倍ぐらい)。早明浦ダムの貯水率に関心が高いのはいいが、昔ながらのため池の貯水率はどうだろうか。田畑も減っているので、農業用水としてのため池の役割はあまり機能していないのかもしれない。
各郡市医師会やその分科会、製薬会社協賛の講演会・勉強会が非常に多い。徳島ではせいぜい週1回程度の頻度と思われたが、香川に戻ってみると、毎週2-3回どこかで何かやっている。大半が高松であるが、坂出や丸亀でも度々開催されている。勤務医時代は、内科や内科以外の同僚の先生との会話で耳学問ができていたが、開業すればその機会がほとんど無くなる。医学の進歩から取り残されそうで少々不安になるところだが、講演会に出向けば、結構勉強になるのでありがたい。これからも取り残されることなく常に最新医学の研鑽を積み、皆と力をあわせて地域医療に誠心誠意邁進したい。