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2016年12月 四国新聞掲載「もの忘れ外来」に掲載されました。

初期症状をみきわめ受診、進行症状は受容して対応、神経内科的に鑑別と治療

―認知症の初期症状は?

國重誠院長 加齢とともに誰でももの忘れはするものだ。それが日常生活や対人関係で問題となる程なら認知症ととらえることができる。
例えば、今朝の朝食の内容が何であったか思い出せなくても、少しのヒントで思い出すことができるなら問題ない。しかし、朝食を食べたこと自体を忘れて、また朝食を要求するのは問題だ。

つい今しがたのことを忘れやすく、同じことを何度も聞く、同じ物を何度も買ってくるなど、もの忘れが問題となり始めたかなと思ったなら、躊躇せず早期に受診していただきたい。

―病状が進行したら?

國重院長 現在使われている認知症の薬は、悪化をある程度遅らせる作用しかない。よって、遅かれ早かれ、病状は進行するので、介護・ケアが重要だ。
 いろいろな記憶は脱落してくるが、喜怒哀楽は障害されにくいので、いやな思いをしたという感情は残りやすい。
 幻覚や妄想がでることも少なくなく、頭から否定すればいやな感情を残すことになる。まずは本人の訴えを受け入れ、原因を取り除くことが大切だ。
 吊るしてある洋服が人に見えるなら、その服を片づける。電気コードを見て蛇がいる様に見えるなら、コードを見えにくく配線しなおす。
 鍵や財布がなくなった、お金を盗られたなどの、物盗られ妄想も厄介だ。一番身近に接し、親身になって世話をしている人が犯人扱いされやすいが、否定しても解決にはならない。どこかに置き忘れていることがほとんどなので、一緒に探して本人に見つけてもらうように誘導する。なかなか見つかりそうもなければ、ほかの話をして、気持ちを探し物以外に向けるようにしよう。

―神経内科専門医として

國重院長 高齢化に伴い、複数の病気を持つ患者が多い。まずは総合内科的に種々の合併症を把握し、その上で神経内科的に、脳卒中の既往の有無や神経変性疾患の可能性を評価、どのタイプの認知症かを鑑別する。
最近、認知症全体の2割に達すると注目されている「レビー小体型認知症」では、ありありとした幻視、手足が震えてこわばり、歩行障害となるパーキンソン症状を伴うことなどが特徴だ。治療と介護に難渋することが多く、薬の選択や、用量のさじ加減に微妙な調節が必要なので、神経内科専門医への受診が望ましい。
当院は、中讃地域で唯一、神経内科専門医が常勤しており、他院との連携も緊密に診療を行っている。

2009年流行の新型インフルエンザについて

2009年のインフルエンザの流行には驚かされた。これまでの常識では、冬~春にのみ流行するものと思われていたが、春に新型がみつかってから、夏にインフルエンザが流行するとは思いもよらなかった。

報道機関は第一番目の事例を報道し、茨木市の大倉高校で集団感染が発覚した。看護師1例目は、大阪市箕面市立病院の29歳男性、医師1例目はさいたま市立病院の24歳女性研修医だった。

徳島県では、阿波踊りのあと患者が多発した。私の医院では、8月下旬から患者が確認されだした。9月上旬に患者が相次いで訪れ、最も多く、9月下旬には散発的となった。ほとんどが中・高校生だ。兄弟姉妹で感染しやすいが、うつっているのは20歳代までで、付き添って来院する30歳代以上の両親や祖父母には感染していないケースがほとんどだ。近所の中学と、高校の学校医をしているが、夏休み明け早々、その中学3年生は学年閉鎖に、高校1年の1クラスが学級閉鎖になった。文化祭、運動会などのシーズンなので、学級閉鎖にするとそのクラスの生徒は健常者までもが参加できないことになるので、学校としては苦渋の決断となる場合がある。

インフルエンザウイルスには様々なタイプがある。鳥どうし、豚どうしで感染するタイプ、ヒトの間で感染するタイプなど、種特有のタイプがいろいろあるのが基本だ。これは、ウイルスがくっつく受容体(アンテナのようなもの)が、ヒトと鳥、豚で異なるためである。ところが、一部変異して種を超えて、鳥、豚、ヒトの間を渡り歩くタイプができることがある。インフルエンザウイルスは8本の遺伝子からなる。ウイルスが感染して細胞に入ると、この8本の遺伝子がいったんバラバラになり、もう一度それぞれの遺伝子が再複製されて細胞の外に遊離していく。この時、別のタイプのインフルエンザウイルスに同時に感染した場合、2種類のウイルスの遺伝子(16本)がシャッフルされ、遺伝子交雑が起こって元のものとは違う新型の変異ウイルスが誕生する。

2009年春より新型として話題となったのは、ヒトに感染しやすくなった豚インフルエンザウイルスだ。このウイルスの起源は、豚インフルエンザと北アメリカの鳥インフルエンザおよびヒトのインフルエンザの3種が遺伝子再集合したタイプなのだ。

2009年の新型インフルエンザの臨床像は、10歳代を中心に小児からお年寄りまでほとんど全ての年齢で感染が起こっている。感染して発病するまでの潜伏期間は1~7日程度とされている。症状は大阪、神戸のケースでは、発熱、咳、咽頭痛など通常の季節性インフルエンザ症状と酷似しており、1-2割の症例で嘔吐や下痢などの消化器症状も見られている。多くの場合、軽症で推移する。すなわち、咳・くしゃみをしながら発熱し、安静にしているうちに4~5日ぐらいで回復というのが一般的なパターンだ。

ウイルスの増殖を抑制するタミフルやリレンザを服用すれば、症状のきつい期間が1~2日間短くなる。 なお、妊婦さん、および糖尿病や呼吸器病などの基礎疾患のある患者、小児の患者で重い肺炎など重症化するケースがまれにある(感染者の0.15%と推定されている)。発症から4~5日後くらいから急に悪化して呼吸困難になって人工呼吸器を要するに至る。新型インフルエンザの致死率は約0.4%と推定されており、通常の季節性インフルエンザに比して若干重症化しやすいといわれている。

高熱はたいていの患者に見られるので、遷延しない限り、高熱が危険な状態とは限らない。アメリカ疾病対策センター(CDC)から危険な兆候として警戒すべきものが発表されている。小児では、呼吸が速くなる。息があがる。顔色が蒼白になる。水分を十分に取れなくなる。目を開けられない。反応しない。イライラして抱っこを嫌がる。大人では、呼吸困難。息切れ。胸や腹に圧迫感や痛みを感じる。突然のめまい。思考が混乱する(注意力・決断力・記憶力低下)などである。小児、成人を問わず、しつこく激しい嘔吐や、インフルエンザ症状が一度改善した後、再び発熱と痰を伴った咳が見られる場合も要注意だ。

流行の予防は、予防接種および感染者との濃厚な接触をさけること。患者の使ったタオルやコップは感染源になるので分けるべきだ。患者はマスクを着用して咳エチケットを守ることが重要である。発症から1週間、解熱して2日目までがウイルス排泄されている可能性がある。インフルエンザは患者の咳やくしゃみなどによってウイルスが飛散し、上気道や肺でウイルスが増殖することで感染が成立する。

咳やくしゃみのしぶきは1-2m飛ぶので、学校では机と机の間の距離が狭いうえに、子供はじゃれ合ったり、至近距離で話し合ったりするので感染が広がりやすい。子供と意思の疎通に乏しいオヤジは感染を受けにくいといえよう。

徳島から香川・坂出に

9歳まで坂出にいたが、大学からずっと徳島だった。卒後は、四国の関連病院の最も多い第一内科(現:生体情報内科)に入局した。第一内科に入局した理由は、三つあった内科教室の中で、一番幅広く内科疾患を研鑽できることであった。

入局当時の専門研究分野は、第一研究室が神経・筋、循環器グループ、第二研究室が内分泌・代謝、第三研究室が血液凝固、第四研究室が血液免疫グループであった。関連病院も多く、消化器、呼吸器は関連病院で研鑽できた。私は、第一研究室に入って神経・筋グループに属し、主に筋疾患、パーキンソン病の基礎的研究にたずさわった。

香川県内の医局関連病院は、さぬき市民、県立津田、高松日赤、高松市民、県立丸亀病院などいろいろあったが、私の医局人事は徳島県内ばかりの勤務だった。父はまだまだ元気で地域医療の第一線で活躍中だが、70歳を越えたこと、息子が中学生になることなどの事情で、3年前から実家に戻って開業したいことを医局に申し入れていた。

しかしながら、新研修医制度による地方大学の医局の医師不足のあおりをうけて、後任人事がなかなか決まらなかった。私の同期(平成元年卒)の入局者は、他大学出身者も含めて十数人いたのに、最近の入局者は数人程度までにとどまり、そのほとんどが女性医師である。近年の関連病院の人事は滞りがちで、医局派遣のみの人事では関連病院を維持できなくなってきたのだ。なんとか後任医師を決めてもらって医局の人事からはずれ、実家に戻った次第である。

しばらく元町の実家(旧:国重医院)にて微力ながら父と診療してきたが、元町の医院は築40年で老朽化が目立ち、町中にあるため非常に手狭だ。改築も難しく、駐車場の確保困難などにより、住宅街の笠指町に医院を新築し、2009年2月5日竣工、3月2日移転開業に至った。2月末の3日間を臨時休診として一気に引っ越したが、この狭い医院にこれだけのものがあったのかと驚いた。BML電子カルテ、コニカミノルタの画像ファイリング(IPACS-EX)など新しいシステムを導入した。

40数年の私の人生のうち、留学でアメリカ(ロサンゼルス)に2年ちょっといたが、後の約半分の期間がずっと徳島だったので、今の私は、徳島県人(阿波男)と思う。しゃべり方も阿波弁(関西弁に近い)にそまった。坂出から徳島にきて最初に驚いたのは、「~だ」「~です」の意味で、「~じょ」と言うことだ。私としては、20年以上徳島にいて語尾に自然と「じょ」をつけるまでには至らなかった。これをつけるのは女性がほとんどで、なんとなくかわいらしいが、一部男性(生粋の阿波男)でも使う人がいて少々気持ち悪い。これからは、坂出で暮らしていくので、そのうち香川県人(讃岐男)になっていくのであろう。

久しぶりに坂出に戻って感じたことを思いつくままに挙げてみると……

お椀を伏せたような山がポコポコと散在している。徳島は四国山地と讃岐山脈にかこまれ、吉野川流域に人が暮らす平野の狭い山間の街であったが、ここは讃岐平野に飯野山、笠山、角山、聖通寺山、金山などなど、平野に山が散在している風景がなんとも目新しく感じる。笠山のふもと、笠指町に医院を移転したが、このあたりも住宅がたくさん増えたものだ。小学生の頃はこのあたりは田圃ばかりで、笠山にカブトムシやクワガタムシを捕りに行ったことが懐かしい。

商店街がさびれている。商店の多くは閉まっていて、路面もシャッターの絵も昔のままだ。商店街を歩いているのは、手押し車をついているお年寄りばかりだ。一番にぎやかだった商店街のトミーと坂出警察の跡地が宅地分譲になるとは夢にも思わなかった。徳島に来た頃は、徳島のアーケード街が短くて坂出とたいして変わらない規模だったので、坂出のアーケード街が都会のように思えた。子供の頃は、土曜デーが楽しみで、露店もたくさん並んでにぎわっていたが、今やその面影もない。元町の飲み屋さんも減り、夜も静になった。毎晩あちこちでカラオケが始まり、うるさく響くので受験勉強中の我が身にとっては劣悪な環境だったことがウソのようだ。

坂出の人口は昭和51年の6万7千人をピークに徐々に減り、今や5万数千人程度に減っている。番の州工業地帯の労働者が坂出の街にあふれていたのが、次第にいなくなった影響が大きい。京町の人工土地も建設当時は斬新な構想だったのかもしれないが、今暮らしているのは老人ばかりで、フーフーいいながら階段を上がり降りしている。通院もままならないので、何軒か往診に行っている。坂出は老人の街。宇多津は若者の街。やはり、短大や大学、専門学校などがなければ、若者をあまり見かけない。なんとなく元気のない街に見える。

香川県の活性化のために、元気な企業に進出してきてほしいところだ。高松駅付近、サンポートも空き地が多い。中央通りのオフィスビルも開き屋が多いようだ。これが四国の玄関か。マンション(サーパス、RGなど)がやたらと目につく。これは徳島でも同じことだ。昔ながらの長屋やアパートが減り、マンションに置き換わっていく。人口が減っているのだから、マンション業界も厳しいだろうに。ダイアパレスのダイア建設は倒産してしまったが、穴吹グループは大丈夫だろうか、マンションのみならず手広く事業を展開しているようではあるのだが。徳島は大塚製薬をはじめ、日亜化学が発光ダイオードで元気ハツラツのようだ。医薬品業界は、合併などで社名が一時めまぐるしく変わって大変そうだったが、IT産業は引き続きのびるだろう。何か技術力がなければ生き残っていけない。

女の人のあいそが悪い。笑顔が少なく、何かよそよそしい人が多い。特にスーパーのレジの人。店員さんやレストランのウエイトレスさん、看護師さんも。これは、徳島県人が田舎者でなれなれしすぎるからそう感じるのだろうか。香川県人に言わせれば、こっちのほうが都会なんよ、だって。

中国人やフィリピン人、東南アジア系の人が多い。スーパーで買い物をしている人の会話が中国語であったり、フィリピナ語(英語ではない)が耳につく。坂出や丸亀の港湾地帯の中小企業でフィリピン人を多く雇っているところが多いようだ。当院にも中国人労働者が健康診断で訪れることが多くなった。

断水がなくなったが、水道代が高い。吉野川上流より香川用水として水脈ができ、香川が断水に悩まされることがなくなった。しかし、徳島からこっちに移り住んで、水道代が高いのには閉口した(徳島の倍ぐらい)。早明浦ダムの貯水率に関心が高いのはいいが、昔ながらのため池の貯水率はどうだろうか。田畑も減っているので、農業用水としてのため池の役割はあまり機能していないのかもしれない。

各郡市医師会やその分科会、製薬会社協賛の講演会・勉強会が非常に多い。徳島ではせいぜい週1回程度の頻度と思われたが、香川に戻ってみると、毎週2-3回どこかで何かやっている。大半が高松であるが、坂出や丸亀でも度々開催されている。勤務医時代は、内科や内科以外の同僚の先生との会話で耳学問ができていたが、開業すればその機会がほとんど無くなる。医学の進歩から取り残されそうで少々不安になるところだが、講演会に出向けば、結構勉強になるのでありがたい。これからも取り残されることなく常に最新医学の研鑽を積み、皆と力をあわせて地域医療に誠心誠意邁進したい。

ブックレビュー 『経鼻内視鏡マニュアル』(羊土社)

病院新築移転に伴ってFTSの経鼻内視鏡を導入した。以前勤務していた病院ではオリンパスの経鼻内視鏡だったが、FTSの経鼻内視鏡は画質が明るいこと、吸引のパワーがいいことなどオリンパスよりはいい感触だった。

本書は全体を通して、きれいな写真が多く、丁寧に書かれていて、実践的でわかりやすい。よくない例も写真と図で説明されており、親切だ。検査機器に関する解説も詳しく、これから導入する場合の機種選定の参考になるとも思われる。

前処置の仕方や鼻出血への対応、耳鼻科疾患の写真や記述も参考になる。生検方法での操作のコツや消化管病変の解説がもっとあってもいいのではと思った。当院の看護師2人のコメントは以下の通り。

看護師Kさんの感想:耳鼻科の解剖は、学生時代もほんの少ししか教えてくれず、ほとんど知らなかったが、一応よくわかった。memoの部分がわかりやすかった。麻酔を噴霧するときは息を止めてすることや、側臥位ですると内耳を麻酔してしまう危険があることを初めて知った。いろいろな前処置方法の記載があるが、どれがいいのかよくわからない。当院では現在スプレー法で行っているが、ネラトンを使った方法の有用性がよくわからない。使用する薬品について、具体的に何ml以上は危険であるなどわかりやすかったが、プリビナの薬理作用がよくわからなかった。

看護師Mさんの感想:この本は、写真での解説・ポイントの記載などがあり、読みやすかった。前処置についても、これまではスプレー噴霧1、2回などとの説明しか受けていなかったが、本書では具体的に何mlと書いてあるのでよくわかる。問題のないキシロカイン投与総量も示されている。スプレーの先端にカテ装着の工夫は、感染予防にいいと思った。麻酔噴霧に関して、側臥位での危険性や、息を止めてすることなど、わからなかった事、細かい工夫点などが示されており参考になった。

コラム 坂出市姉妹都市協会留学生2009年(第11回受け入れ)ホストファミリーとして

当時高1の息子と留学生が、交流を通じてお互いに国際的理解が深まればと思い、ホストファミリーをしました。

我が家に来たジャスティンは2m超の長身の青年で、高知の日曜市で小さな盆栽を手に取った時、それがさらに小さく見えたほどです。

彼とは夜中まで色々な話をしたり、佐藤さんの工房での団扇作り、尾上さん主催のバーベキューや花火に参加したりしました。
彼は翌年夏に我が家に再来し、さらに楽しくかけがえのない思い出を残してくれました。今度は医学生になった息子が渡米し彼と再会できればと思います。
最後に去年、50歳代の若さで他界したホストファミリーの一人、多田羅尚登さんのご冥福をお祈り致します。
合掌。

I volunteered my family to be a host family with the hope that my son Ryuichi, a first-grader in high school at that time, and an American exchange student would be able to acquire deeper international understanding through mutual communication.

Justin, the student that we hosted, was a young man more than 2 meters tall (6′ 6″). When he picked up a tiny bonsai tree (a miniaturized potted plant) at the Sunday Market in Kochi-city, the bonsai tree looked even more miniature. We chatted about various things past midnight on some nights, made uchiwa (a traditional Japanese fan) at Mr. Sato’s art factory, and enjoyed BBQ and fireworks hosted by Mr. and Mrs. Onoue. Justin visited our home again in the following summer of 2010, and gave us more wonderful and valued memories. Ryuichi is a medical student now, and he is looking forward to visiting the U.S. and meeting Justin in the near future.

Sadly, I must take a moment to pray for the father of one of our fellow host families, Dr. Naoto Tatara. He passed away last year much too young in his 50’s. May his soul rest in peace.

ネパール・ヒマラヤ、パキスタン・フンザ地方山行所感

 

徳島大学山岳部がヒマラヤ遠征に至るまで

私が大学生時代の1980年代は、山岳部の学生にとって、ヒマラヤ登山は高嶺の花だった。
ネパールでは、アイランドピークやメラピークなどの6000m級の山の数座が、手続きが簡略化されたトレッキングパーミッションで登れる山として解禁になって間もない頃だった。

ネパール・アンナプルナ山系を1周トレッキングして、ヒマラヤへの情熱を熱く語る松田聡先輩の勧めで、学生だけで1987年(昭和62年)にネパール・ヒマラヤに遠征を出すこととなった。数ある候補の中から、クーンブ(エベレスト)山系のアイランドピークに照準を絞った。時期は、僕は4年(医学部専門2年)、木子裕雄君は工学部3年の春、プレモンスーンシーズンだ。初めての海外旅行で、一生に一度しか行けないかもしれないと思うと、世界の最高峰エベレストを間近に見てきたいと思った。

一時疎遠になっていた山岳部OBの方々と現役部員との関係も、松田先輩が大島秀夫先生などに積極的に働きかけてくださっていたので、交流も密になって多大なご支援を頂く事ができ、有り難かった。このアイランドピーク遠征の成果が、後の1988年メラピーク、1990年プモリ遠征へとつながる。

まずは情報収集である。部室の書棚には、過去2回のアラスカ遠征の報告書があり、海外遠征のノウハウは、歴史ある徳島大学山岳部に培われてきたはずだった。しかし、我々にとっては遠い過去の他人事の様だった。当時を語る先輩も身近にはほとんどおいでなかったので、参考にできなかった。

幸いにして、鳥取大学山岳部が1986年(昭和61年)秋にアイランドピーク遠征、10月に登頂していることを知り、登頂者の一人、横関一郎さんに直接話を聞きに車で鳥取まで行くことにした。多くの学生が車を持ち始める時代で、私も父からお下がりのオートマチックのカローラSGLを使っていた。山岳部同級生で工学部の佐藤祐司君や大西善仁君も車を持っていた。

普段は松田先輩運転のホンダマチックのシビックで勝浦川沿いを遡り、生比奈までロッククライミングの練習によく通ったものだ。工学部の北澤聖司先輩はかっこいいアルミホイ-ルを装備したサニーGL(自称グリコラッタッタ)、友道康仁先輩はガス喰いコスモ(後、スズキ・セル坊)、教育学部の福田純子先輩(後に後輩の湊達治君と部内恋愛で結婚)のサニーちゃんでは、部活後の夕食などに連れて行ってもらったものだ。遠くは香川県境までドライブがてら、さぬき屋やびんび屋でさしみ定食。たまに沖浜の山口屋に行って、うな重の贅沢。藍住の樽十のお好み焼きや、ヨーロピアンのハンバーグ、などなど。

当時CLで遠征隊長となった木子君と一緒に1987年2月8日午前5時に徳島発、7:30実家の坂出に寄り、鳥取大学に着いたのは午後2:30だった。瀬戸大橋も明石大橋もなかった頃だ。四国から本州へはフェリーで渡り、高速道路もまだ発達していなかったので、一般道で延々と鳥取まで長時間運転、結構くたびれたのを覚えている。このときの情報が非常に役立った。

鳥取大学隊は、現役部員3人の構成だった。現地トレッキングエージェントは日本語が通じるコスモトレックが良かったこと。日本から持っていかずとも、カトマンズで手に入る装備の数々。ルクラ行きの飛行機が利用できず、ジリから歩いたこと。道中に虫が多く、ノミやシラミがうじゃうじゃいるところもあったこと。虫さされ部位が化膿して大変だったこと。5050mのBCで、メンバーの佐々木一哉さんが高山病で頭痛がひどく、登頂断念も、隊長の平岩竜彦さんと横関さんが登頂、高山病には利尿剤のダイアモックスが効いたらしい。登山ルートのクレバス帯や雪壁の状況なども詳しく教えてもらい、大変有り難かった。後に、鳥取大学から詳細な遠征報告書を送って頂き、共感を覚えるところが多かった。

大島先生や当時山岳部長の中瀬敬之教授においては、ネパール・ヒマラヤの詳細な地図を入手して頂いたり、ネパールに水力発電を援助する事業計画などで情報収集して頂き、登山計画に大変参考になった。装備をそろえるにあり、アラスカ遠征での写真にも写っていたエンジ色の古い大きい部旗があったので、持っていくことにした。これが、アイランドピークでの登頂写真になった。

近年のヒマラヤ登山は商業化し、身近になってきた。TVタレントのイモトアヤコがマナスル登頂、三浦雄一郎が80歳でエベレスト登頂。竹内洋岳がようやく日本人初のヒマラヤ8000m峰14サミッターとなったなど、話題が多い。ヒマラヤ本が数多く出回っていて、いろいろ読んでいるところだ。

今度はパキスタン・カラコルム・フンザ地方へ

一方、パキスタン・ヒマラヤのトレッキングに関しての情報は皆無に近かった。学生の海外旅行がはやり始めた時代で、世界各国の「地球の歩き方」が次々と刊行されていた。このシリーズにネパールはすでにあったが、パキスタンはまだなかった。当時、医学部同級生は、大学4~5年の時がチャンスとばかりに海外旅行談話に花が開いた。上村光弘君(現;国際医療研究センター呼吸器内科)はシベリア鉄道の旅、金塚勝君(現:徳島の板野で内科開業)はタイ旅行、新浜明彦君(現:沖縄県宜野湾市で開業したばかり)は中国成都などの旅行。女性陣はもっぱらヨーロッパだった。

ネパールでの経験があったので、パキスタン旅行は現地に飛び込んでなんとかなるだろう思った。アイランドピーク遠征の興奮がさめやらぬ1987年の夏休みに、イスラマバードに飛んだ。このときの往路は、山岳部1年後輩で工学部建設工学科4年の児玉文暁君と一緒だ。僕はフンザからバツーラ氷河などをトレッキング、彼はパキスタンからクンジェラーブ峠を越えて中国、カシュガル、トルファン、トンコウ、ラサ、ネパールのカトマンズへと回った。これが地球「歩き人ふみ」の放浪の旅の原点となる。

2013年12月15日、児玉君は、北海道での歩き旅で道連れとなったあゆみさんと二人で阿南の橘町の実家に徒歩でゴールインした。文暁君はタキシードで、あゆみさんはウエディングドレスを身にまとい、リュックをのせたカートを押しながらの何とも目立った格好だった。同時に婚姻届を提出、入籍した。僕も夫婦で橘町にかけつけ、松田先輩や多数の旅仲間とともに実家で出迎え、結婚を祝った。

2014年2月15日、学生時代に山行を共にした者が我が家に集まり、児玉君を囲む会を行った。アイランドピークやメラピークの話、歩き人の旅スライドショーなど、夜更けまで話は尽きなかった。
2014年8月12日に8月7日消印の絵はがきがベトナムから届いた。元気で放浪しているようだ。

1987年(昭和62年)春 徳島大学山岳部Imja Tse (Island Peak) 6160m遠征記録

メンバー
隊長:工学部精密機械工学科3年 木子裕雄 (21歳)、隊員:医学部医学科4年 國重 誠 (22歳)
ガイド:Amg babu Sherpa (22歳) (コスモトレック所属)、キッチンボーイ:Maila Rai (20歳)、ポーター:行き4人、帰り2人
行動記録
3/1日:徳島→(徳島阪神フェリー)→神戸→大阪堺(木子宅)
3/2月:大阪堺(木子宅)→大阪空港 荷物は2人で60kg→(大韓航空ソウル経由)→香港
3/3火:香港→(ロイヤルネパール航空ダッカ経由)→カトマンズ
3/4水:カトマンズ、トレッキングエージェントのコスモトレック訪問、アンバブをガイドに雇用
3/5木:カトマンズ、宿をタメル地区のツクチェピークロッジに移す
3/6金:カトマンズ、タメルで装備の一部を買い出し
3/7土:カトマンズ、パタン観光
3/8日:カトマンズ、装備点検
3/9月:カトマンズ、ルクラ入りの予定だったが、飛行機がキャンセルされた
3/10火:カトマンズ→ルクラ2800m
3/11水:ルクラ2800m→パクディンマ2562m→ジョサレ2750m
3/12木:ジョサレ2750m→ナムチェ3440m 木子が発熱 (浩宮様ネパール訪問)
3/13金:ナムチェ3440m装備買い出し 木子解熱
3/14土:ナムチェ3440mバザールで食糧買い出し 國重が発熱
3/15日:ナムチェ3440m
3/16月:ナムチェ3440m→プンキ3250m→タンボチェ3867m 國重解熱
3/17火:タンボチェ3867m→ディンボチェ4350m
3/18水:ディンボチェ4350m→高所順応4680m地点往復 木子が腹痛と下痢
3/19木:ディンボチェ4350m→チュクン4370m
3/20金:チュクン4370m、高所順応で國重は4900m地点往復
3/21土:チュクン4370m、國重はBC5050m往復、木子は4900m地点往復、ポーター4人と別れる
3/22日:チュクン4370m→パレシャヤギャブ5050mBC設営、木子が嘔吐と下痢、國重は咳が多い
スイス隊、フランス隊、信州大隊が登頂して帰ってきた。
3/23月:國重はBC5050m→偵察で雪線5800m往復、木子はペリチェ4243mに下りて診療所に
3/24火:國重はBC5050m→AC5600m荷揚げ往復、オーストリア隊、ドイツ隊がBC設営
3/25水:國重はBC5050m→AC5600m、オーストリア隊は落石で撤退、ドイツ隊はセラック帯で撤退
3/26木:國重はAC5600m→登頂6160m→BC5050m、木子はペリチェ4243m→BC5050m
ケルンに導かれて岩尾根を登る。5800mで雪田クレバス帯になり、アイゼンをつける。
アンザイレンして高度差200mの氷化した雪壁を登り、雪稜に出る。
東京からの社会人2人と一緒になり、共に登頂。

ロールワリン山群、マカルー、チョーオユーなどの展望を楽しみ、東京の人に甘酒をご馳走になる。
3/27金:BC5050m→ディンボチェ4350m、木子は下痢
3/28土:ディンボチェ4350m→ロブジェ4930m 3/29日:ロブジェ4930m→カラパタール5545m往復(國重)、木子は下痢でロブジェに引返す
3/30月:ロブジェ4930m→ペリチェ4243m→タンボチェ3867m→プンキ3250m 3/31火:プンキ3250m→ナムチェ3440m
4/1水:ナムチェ3440m、キッチンボーイのマイラと別れる
4/2木:ナムチェ3440m→ルクラ2800m
4/3金:ルクラ2800m
4/4土:ルクラ2800m→カトマンズ
4/5日:カトマンズ、コスモトレックで精算
4/6月:カトマンズ、観光
4/7火:カトマンズ、観光
4/8水:カトマンズ→(ロイヤルネパール航空)→香港
4/9木:香港→(大韓航空ソウル経由)→大阪空港→神戸垂水(大島秀夫先生宅)
大島先生宅ではブロックの神戸牛を厚めに切り分けてのステーキやワインなど、贅沢なご馳走を頂いた。
また、早速ネガフィルムを現像、焼き増しもして頂き、山腹からのパノラマ風景などを含む山行の写真を楽しんだ。

徳島新聞記事

1987年(昭和62年)夏、パキスタン、フンザからバツーラ氷河トレッキング記録

メンバー:医学部医学科5年 國重 誠(ギルギットまでの行きは工学部建設工学科4年児玉文暁と同行)
ガイド兼ポーター:マリク(ギルギットより同行)
行動記録
https://www.kunishigemakotoclinic.jp/blog/44?preview=true7/13:東京成田→(パキスタン航空ペキン経由)→イスラマバード
7/14~15:イスラマバード→(ピルバダイより夜行バス)→ギルギット
7/16:ギルギット
7/17:ギルギット(児玉と別れる、彼はここから国境行きのバスに乗り、クンジェラーブ峠越えで中国へ)
7/13:東京成田→(パキスタン航空ペキン経由)→イスラマバード
7/14~15:イスラマバード→(ピルバダイより夜行バス)→ギルギット
7/16:ギルギット
7/17:ギルギット(児玉と別れる、彼はここから国境行きのバスに乗り、クンジェラーブ峠越えで中国へ)
7/18:ギルギット→パスー(バツーラ氷河末端)
7/19:パスー、下痢になる
7/20:パスー→ヤシュパル、下痢が続く
7/21:ヤシュパル→ファティマル(バツーラ氷河の中腹付近)
7/22:ファティマル→ヤシュパル、下痢か続くため、引き返す
7/23:ヤシュパル→パスー、下痢か残る
7/24:パスー→グルミット
7/25:グルミット→グルキン氷河末端往復
7/26:グルミット→カリマバード(フンザ地方の中心地)
7/27:カリマバード→ウルタル氷河末端往復
7/28:カリマバード→ホーバル氷河末端往復
7/29:カリマバード→ハサナバードのマリクの家
7/30~8/3:ハサナバードのマリクの家
8/4:ハサナバード→ギルギット
8/5~6:ギルギット→(夜行バス)→ラワルピンディー
8/7:ラワルピンディー→ラホール
8/9~13:ラホール:「苦行する釈迦」で有名な博物館や、イスラム寺院など歴史的建物が多い

「苦行する釈迦」ラホール博物館所蔵

8/14:ラホール→カラチ
8/15:カラチ→(パキスタン航空マニラ経由)→東京成田→神戸垂水(大島先生宅)
みやげに買っていた現地の民族衣装を身にまとい、無精ひげを整えて大島先生と夕食会に出かけた。
大島先生は、出席者に私のことをパキスタンのとある王子だと紹介、ウソで皆を一瞬驚かせた。
翌年秋の徳島大学蔵本祭の写真コンクールで僕の撮ったパキスタンの少女(写真右)が知命賞(1等)に、
岡本君の撮ったメラピーク合宿の写真が蔵本賞(2等)になった。

医院概要・アクセス

医院概要
坂出駅南約800mです。
住所:〒762-0038 香川県坂出市笠指町4-28
4-28 Kazashi-cho Sakaide-city Kagawa, 762-0038 Japan
TEL:0877-46-5501 FAX:0877-46-5210

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院長(誠)の神経内科は午前のみ。名誉院長(昭郎)が午後の診療をします。木曜は12時までです

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